大切(プレシャス)な時間(1)

いとしい時間〜やさしい時間・2〜 -after story 01-

 彼と自分は同じ人を好きになった。
 彼も自分も、その人が初恋の人だった。
 あの人は、彼や自分に“愛すること”を教えてくれた、とても大切な人だ。
 だけど今は、失う怖さとつらさも教えて逝った、残酷な人でもあると思ってしまう。
 あの人を介して知り合った彼と自分は、今は互いが二度目の恋の相手になっている。
 そんな自分と彼は、あの人が遺していった教えから恐れを抱くようになった。
 お互いの年齢差。
 いつかまた独りぼっちになってしまうときがくる、という、そう遠くない未来。
 自分たちに残されている大切(プレシャス)な時間が、同世代同士の恋人たちよりも少ないという事実。
 それらが今の自分たちを落ち着かなくさせ、ときおりぎこちない互いにさせる。
 怖くて、不安で、そこから目を背けようと足掻いてばかりいる彼と自分。
 臆病者の自覚があるお互いだから、喧嘩になってしまったのかもしれない――。

     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

「柚月、里親申請をしないか?」
 柚月にとって、熊谷からのその打診は青天の霹靂だった。
「……は?」
 知らず声が剣呑に尖り、晩飯の回鍋肉を摘んだ箸が宙で止まる。間の抜けた疑問符を口にした柚月の眉間に、これ以上ないほどの深い縦皺が寄った。
「里親って、実親に育ててもらうのが困難な子供が健全な家庭環境で育つための制度ですよね。俺らと無縁の制度のはずですが」
「そう喧嘩腰になるなよ。実は翼が先般敗訴した案件で弁護した中学生の子を引き取ることにしたそうだ」
「翼、って、熊谷さんの弁護士事務所の大前さんですよね。確か彼って陽大(ひなた)さんと一緒に暮らしてはったんと違います? 彼も了承しはったんですか?」
「ああ。その子を引き取るに当たって、翼が陽大くんと養子縁組をしたそうだ。面倒なので仕事上は大前のままで通しているが、三ヶ月前から久利生(くりゅう)に姓が変わった。法定的な面を考慮したんだろう」
「法的な面? って?」
 身内と縁を切った大前弁護士が彼のパートナーである陽大の一親等であることに拘り、陽大の養子になる形で入籍したそうだ。大前が敗訴した案件というのは、親の虐待で保護されるはずだった中学生の子が、ゲイを理由に施設から入所拒否を受けたことで提訴した、というものだった。結果的に施設の拒否理由は認められないという判決が出たものの、両者で再度話し合いを、というオチに終わり、熊谷や大前としては敗訴に近い、という判断だったらしい。そこで大前が、その中学生に陽大の両親との養子縁組を打診したそうだ。陽大の両親と縁組すれば、彼は陽大の義弟になる。つまり陽大の二親等、陽大や大前に何かあったとき、その中学生よりも先に一親等であるお互いがお互いに対する優先権を持てる、ということらしい。
「なるほど……せやかて、いやらしい話ですけど、それだと陽大さんのご両親に何かあったとき、引き取った子と陽大さんとの間で揉め事になる可能性も出てきた、ということにもなるんと違いますか? 例えば相続とか」
 話が里親申請から逸れたのをこれ幸いとばかりに、柚月はその話題を引き延ばした。
「陽大は広告デザイナーとして名を上げ始めているようで、収入も安定してきたらしい。それに親の資産に固執していないそうだ。それよりも、陽大や翼に万が一のことがあったとき、家族として最優先されるのがお互いじゃない状況になることのほうが、彼らの中では大問題なんだとさ。翼も大概嫉妬深いヤツだから、しまいには陽大の愚痴を聞く羽目になった」
 そう言って熊谷は苦笑した。二人とのやり取りを思い出したのだろう。彼はそれらごと呑み込むように、タンブラーのウィスキーを一気にあおった。
「二人がそう決めた経緯を陽大から聞いて、ふと思ったんだ」
『仲の良い家族になっているオレたちを見たら、(つうちゃん)のお母さんもウチの両親ほどまではいかなくても、少しは気持ちが和らいでくれるかな、と思ったら、まあその手もアリかと思って』
 陽大は熊谷に、養子縁組に前向きになると決めた理由を大前に内緒でそう打ち明けたのだと言う。
「柚月が俺を自分の籍に入れたがらないのは、親父さんやおふくろさんに孫の顔を見せてやれない後ろめたさがあるから、というのもあるんじゃないか、と」
 話題が里親申請から脇道に逸れてくれたと油断していたところへ、唐突に本題へ戻されてしまい、否定の言葉を即答できなかった。
「おまえは一人っ子という立場に責任を感じてしまうくらいには、元来は親孝行息子だし。籍を入れることについて無理強いをするつもりはなかったが、柚月のおふくろさんを通じて、それなりに巧く家庭運営ができているところを親父さんに知ってもらえれば、親父さんの対応も変わるかと思って」
 熊谷は後半辺りから表情を曇らせてゆき、どうにかといったふうにそこまでを言い終えると、生春巻きの最後の一つを頬張って「まあ、考えてみてくれ。ごちそうさん」と無理やり食事を終わらせた。
「ちょ、待ってくださいよ。話がまだ途中やないですか」
 柚月は残った回鍋肉の最後の一口を慌てて腹に収め、競うように食器を持ってキッチンに向かった熊谷を追い駆けた。
「そんなん、熊谷さんに引き取られた子供が可哀想やないですか。自分の都合に利用しているだけ、って自覚あります?」
「は? 別に自分の都合だけじゃない。調べたら、LGBTQで家族から存在を否定された子や、父親から性的虐待を受けた子なら、うちみたいなケースの家庭のほうが里親として適している場合もある、という見解もあるとのことだった。養子縁組と違って、里親制度は相続でもめる心配もない。巧くやっていければ、成人後でも義親に対して何かと気に掛けてくれるものだそうだ。面談で気が合えばウィン・ウィンだと考えているが」
「そんなんはその子の受け止め方次第であって、熊谷さんが決めることと違います。それに熊谷さん、人の話を聞いてましたか? 俺、前に籍を入れるのどうのって話をされたときに言いましたよね。まさか熊谷さんが、あの熊谷前法務大じ」
 柚月が言い終える前に、ガシャンと皿の置かれる乱暴な音が柚月の言葉を掻き消した。
「おまえこそ、俺に何度同じことを言わせれば気が済むんだ。熊谷の家とはとうの昔に縁が切れている、関係ないと言っているだろう」
 人の気も知らないでいきなりキレ出した熊谷に、柚月のほうもカチンと来て言い返した。
「そんなん熊谷さんが勝手にそう思い込んでいるだけやないですか。熊谷さんが事務所にこもっているときに、何度あなたのお母さんが心配してここを訪ねてくれはったか、どんだけ心配掛けてはるか、俺、そのたびに伝えてますよね。これ以上お父さんとのもめ事を増やしてお母さんに負担を掛けるわけにはいかないでしょう。あなたのお母さんは喜寿を超えてはるんですよ。いい年して、いつまで親に甘えてるつもりなんですか!」
 言ってから「しまった」と思っても後の祭りだった。
 熊谷の顔がみるみる険しくなってゆき、柚月に負けないくらいの深い皺が眉間に寄る。
「……年の話をするなと言っただろう」
 晩秋の空気をさらに冷やすような低い声がキッチンの床に落ちた。それが柚月の足首を絡めとり、ひんやりとした感覚が脚を伝って心臓を軋ませる。
「あ、の」
「頭を冷やしてくる」
「え、ちょ」
 熊谷は柚月に引き留める暇も与えず、部屋着のスウェットなのに、その上にコートを羽織って部屋から出て行った。
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